大東流の歴史

幕末まで

大東流の由来

幕末までの大東流の歴史は、武田惣角および武田時宗から伝わっている巻物と口碑に基づいています。それによると、 「大東流」の名の起こりは、今から約 900年前、流の遠祖というべき新羅三郎源義光(1045-1127)に由来します。義光は幼少の頃、 近江の大東の館に住み、大東三郎とも呼ばれていました。「大東流」の名はこれに基づきます。

新羅三郎源義光は孫子、呉子等の軍学を学び、左兵衛尉として宮廷に仕え、相撲、合気の道を究めた文武の名将でした。 義光の究めた合気は、源氏の家に伝わる秘法に工夫を加えたものです。合気の源流をさかのぼれば、古来の手乞(てごい)に行き着きます。 日本最古の書の一つである『古事記』に出てくる建御雷神(たけみかづちのかみ)が建御名方神(たけみなかたのかみ)の手をとって 「葦を取るように、つかみひしいで投げた」という話がそれです。

この手乞は、相撲の始めともいわれ、『日本書紀』に出てくる野見宿禰(のみのすくね)、当麻蹴速(たいまのけはや)の伝説から、 さらに平安時代の宮中での相撲節会(すまいのせちえ)、鎌倉時代の武士の相撲にまで伝承されたものです。相撲節会は全国から力士を集め、 天皇の御前で相撲をとるものですが、今日の相撲とは異なり、土俵もなく、手乞から発した武技の要素が強いものでした。仁明天皇(810-850) の詔勅にも「相撲節は単に娯遊に非ず。武力を簡練する、最もこの中にあり」とあることからもうかがえます。

清和天皇(850-880)の貞観10年(868)、それまで式部省の管轄だった相撲節会が兵部省の管轄に移され、相撲は武技の色彩を強め、手乞によって天皇を守護する形が、 清和天皇の孫經基王から始まる清和源氏に継承され、經基から源満仲、頼義、義光と続いて行ったのです。

義光は、後三年の役の戦功によって甲斐守に任ぜられ、さらに晩年、刑部入道と称して園城寺密教道場で心身の鍛練を行い、無敵の神通力、 霊感神格を体得したといいます。ここにいわゆる手乞を脱した大東流の原点が生まれした。

甲斐武田氏から会津武田氏へ

義光は次男義清に源家伝来の旗と鎧を与えて後継ぎとしました。義清の孫信義の時に、甲斐国北巨摩郡武田村に住んで武田氏を名乗ったといいます。 後の武田信玄(1521-1573)に連なる甲斐武田氏の始まりです。武田氏には、源家伝来の旗と鎧が伝えられるとともに、大東流も伝承されて行ったのです。

天正元年(1573)、武田信玄が没すると、信玄の一族武田土佐国継は信玄の遺書を持って翌年2月会津に到着しました。信玄と盟約を結んでいた会津の大名芦名盛氏に仕え、 地頭として会津西青津村田方に50町歩の土地を受け、小池に居住、15騎、足軽10人を召し抱えました。 また坂上田村麿が建立したという清寧寺が老朽していたのを再建して会津天寧寺の末寺とし、西光寺と命名しました。以後、国継の末孫武田家は、 清寧寺の守護神社である伊勢宮の宮司を兼ねて会津に定着し、大東流合気の秘奥(小具足)を伝承していきました。

徳川時代になると、幕府を開いた家康は、信玄の旧臣小幡景憲の武田流(甲州流)軍学を官詐の学として公認したのを始め、武田氏の政治、軍事、 経済等各方面の業績を幕府の政策に取り入れ、成果を挙げました。

家康の孫で秀忠の第四子幸松丸は、武田信玄の四女武田見性院の養子となり甲松丸と改めて武術に励み、後に信玄の臣で家康の妹を妻にした保科正直の子正光の養子となり、 保科正之と名を改めました。

保科正之(1611-1673)は正保元年(1644)山形20万石から会津23万石に任ぜられ、会津に入城、 善政を行い名君とうたわれました。正之は国継が開いた西光寺を会津三十三番の巡礼止所に定め、宇治川先陣争い(1184)の名馬 イケヅキ  を源頼朝に献じた小池を源家ゆかりの地として御の字を与え、御池としています(現在も御池と呼ばれています)。

正之は慶安4年(1651)、三代将軍家光の遺命により、11歳の将軍家綱の後見及び補佐役を託され大老となりました。以後、江戸城にあって政治を担当すること20余年、 その間、殿中に平和を保つため武田国継から会津に伝来された大東流を殿中護身武芸である御式内(おしきうち)(御敷居内)に改訂して、老中、重臣、 奥勤務者に指導しました。さらに将軍家指南役小野忠常から小野派一刀流の秘奥を学び、小野派一刀流と御式内(御敷居内)の二流を歴代会津藩主に継承させました。 とくに御式内(御敷居内)の指導については三河西郷家を祖に持つ上席家老西郷家に委ねました。

西郷家は武田氏と同じ源氏と称していますが、元は藤原氏につながる肥後菊池氏の流れである三河の豪族でした。徳川家康の側室で二代将軍秀忠と忠吉を生んだ西郷局も同族です。 幕末の当主は西郷頼母であり、これもまた同族である薩摩の西郷隆盛との間に書簡のやりとりのあったことが、発見されています。

一方、武田家は国継から主税、信次、さらに四代を経て惣右衛門(?〜1853)と続きます。惣右衛門は京都で安倍晴明(921-1005)の後裔土御門家について陰陽道を修行し、 免許を受け武田内匠頭惣右衛門となり、会津御池に帰ってからは、御伊勢宮宮司を勤め、神道、陰陽道、大東流の達人として知られました。各地を巡教し、 会津家老西郷頼母にもこれらの秘伝を授けています。

惣右衛門の長子惣吉(1819〜1906)は、父祖伝来の農地を受け継ぎ、若いころ相撲、剣術、棒術(八尺棒)、大東流を修行、 藩から許されて若者二人と各地を武者修行し豪勇の名を轟かせました。帰藩してからは会津力士界の大関となり、藩主から白糸関の四肢名(しこな)を受けています。 教育のある人物で、寺小屋で教えたり、剣術と棒術を自宅内の道場で教えていました。京都蛤御門の戦い、長州征伐二度、鳥羽伏見の戦い、 戊辰戦争白河口の戦いに力手組長として砲兵隊に参加、勇名をはせています。